毒蛇はこれでも急いでない

『それさえ守れば君は元の世界へ戻ることが可能です。わかりましたね?』

 記憶含め持って行けるものは何もないが、その代わり過ごした時間すら消して完全に元の状態で帰る事ができるのだと。それを学園長から聞かされたのは二年に進級して間もない頃。
 当時から彼への恋心に悩まされていた私はその事にひどく救われたものだ。元より焦がれるだけで満ち足りる恋だった。叶えたいなんて、欠片も思っていなかった。
 けれどきっと破れたとしても思い続けてしまうんだろうなと彼への感情の重さに自覚していたからこそ、元の世界に帰れば忘れる事には感謝しかなくて。
 この世界で築き上げてきた友情や思い出すらも失うのは寂しかったけれど、元の世界には十数年共に過ごしてきた家族や幼い頃からの親友がいて、彼らと進んでいける未来があって、狂おしいほどの激情を抱く相手はいない。
 だから、グリムの卒業を見届けたら私は元の世界へ帰ると決めていた。

 私がジャミル先輩と親しくなり始めたのは一年のウィンターホリデーの後。それまでは何となく苦手に思っていたけれど、吹っ切れた彼は個人的に好ましく、あとあんな事が起こった後だったから少しだけ心配で。
 最初は様子見のつもりで関わりに行っていたはずなのだが、気付けば私は彼と雑談を楽しめるような仲になっていて。長子だったり、妹がいたり、料理が得意だったり、そういった些細な共通点から私達は妙に馬が合った。
 あとは宴の準備を手伝ったり、彼が苦手な虫をやっつけたり、ひたすら愚痴に付き合ったり、そういったできごとを繰り返すうちに、私はジャミル先輩と打ち解け、そして彼へ密かに恋心を抱くようになっていた。

「卒業後は俺のところへ来ればいい。君が手伝ってくれれば、カリムの世話もちょっとは楽になるだろう」

 先輩が四年生となり家業を継ぐ下準備の為、熱砂の国へ滞在しにいく前日に告げられた言葉。そのもしもの日は訪れない、正に卒業式の日に私は全てを置き去りにして元の世界に帰るのだから。

 交流を続けるうちに気付いたことがある——先輩は懐に入れた相手にはひどく甘い、そして私はその対象であると。
 だとしても学生時代の後輩程度ならまだ大丈夫。学園長の保護下にあるうちは友人でも問題ない。でも卒業した後はダメだ。学園を出た後の私には何一つ利用価値は残っていないのだから。
 魔力がない、身分がない、そんな私は先輩に迷惑をかけることはあっても力になることはできやしない。枷になることはあっても、糧になることはないのだ。
 そんな私が先輩の傍にいていいはずがない。傍にいられるだけの理由がない。

「ありがとうございます、ジャミル先輩」

 だから私は彼の申し出は無視してお礼だけを口にした。その裏でひどく喜んでいる自分から目を逸らして。

「じゃあ引き継ぎは上手くいってるんですね」
「元より入学前に殆ど仕込まれていたからな、多少業務が増えたくらいだ」

 インターンの関係上、四年生が学園に来ることは殆どない。だけどもある日、寂しくなった私はいつも先輩と会話していた中庭の一角に立ち寄ったところ、彼の姿を見つけて。
 なんでもアジーム家から学園長へのおつかいのために訪れていて用件を終えた後、この場所で私を待っていたらしい。まさか本当に会えるとはな、と微笑む先輩に彼への好意が見透かされているようで少し恥ずかしかった。
 貴重な自由時間だろうに先輩はそれを私との会話に充ててくれて。先輩が学園を離れてからはスマホでやりとりしていたけれど、やはり直接話せるのは嬉しくてついつい声を弾ませる。
 ただ楽しい時間はあっという間に過ぎていくものだ。先輩が「そろそろ帰るとするよ」と立ち上がった瞬間、ぐにゃりと私達の周囲が歪んで。
 こちらへと手を伸ばし、いつも冷静な彼らしくない焦った表情を見せる先輩の姿を最後に私の意識は暗転した。

 そうして意識を取り戻した時には、私と先輩は『セックスしないと出られない部屋』なんてふざけた名前の看板が掲げられた部屋へと移動させられていた。
 気味が悪いほど真っ白なその部屋には件の看板と、鍵穴がないのに開かない扉があるだけ。
 どうやら魔法が遮断される仕組みらしく、ジャミル先輩が何度唱えようともマジカルペンは反応せず、魔力式だからかスマホも動いてくれない。二人でドアを叩いて、先輩に至っては蹴り飛ばしたがびくともしなかった。
 ひとしきりの抵抗が全て無駄に終わった後「君が行方をくらました以上、そのうち誰かが探しに来るだろう」とジャミル先輩は助けを待つ姿勢に切り替えて。普通は他者がそういった冷静な姿を見せれば落ち着くものなのだろう。
 でも私は焦りしかなかった。どうしてこんな事になったかわからない、だがそんなことはどうでも良くて。ただ先輩を早く帰さなければという気持ちでいっぱいだった。
 もし助けが来たとしてもいつになるかわからない、それどころか助けが来るとは限らない。食料もなければ、この部屋の空気だっていつまで持つものか。先輩はそれを計算してギリギリまで待つつもりなのかもしれないけれど。
 彼の立場を考えれば、どんな理由があったとしても帰りが遅くなったことで先輩はきっと酷い目に合うんだろう。だとしても彼からは手出しすることも、私を責めることもしないのだ。そんな先輩の無意識の甘さを私は知っている。
 だから私は自ら制服のジャケットを脱ぎ捨てる。続けてタイを引き抜いてブラウスのボタンを外して。

「監督生」

 目を丸くする先輩に、引きつった笑いを向ける。こんな不器用な笑みでもないよりはマシだろう。
 自分がどれだけ馬鹿な事をしているか、わかってる。こうなったが最後すべてが台無しになるって。でも、それでも、この土壇場で覆ってしまった価値観を元に戻すつもりはなかった。

「ごめんなさい、先輩。面倒だとは思いますが付き合ってください」

 私、早く帰りたいんです。そう嘯く私へ「君は実に馬鹿だな」とジャミル先輩が触れて。

 それがつい数週間前の話だ。
 あの空間では時間軸が狂っていたらしく、おそらく部屋の中で過ごしたであろう数時間は現実世界には数秒しか経っていなくて。待つ事を選んでいれば共倒れになっていたことだろう。なんにせよ先輩は何も問題無く熱砂の国へ戻れたようだった。
 部屋に出た時に「今日のことは忘れましょう」と告げたからか、それとも最初からそのつもりだったのか。先輩と私の関係は変わることはなかった。
 あの日から先輩とは顔を合わせていない。でもスマホでのやりとりはいつも通り、少しばかり仲の良い先輩と後輩のまま。
 一番変わってはいけないものが変わってしまった上、ただただ寿命が延びただけに過ぎないのに私達の関係が変化しなかった事にひどく安堵して。そんな自分に自己嫌悪を覚えながらも後悔はなかった。
 こうなってしまった以上、色々と問題は山積みだ。それらを解決しながら、いずれ私達の関係を断ち切る日まで先輩に隠し通す。私のその計画は順調に進んでいた。

「……けっ、こん?」
「面倒だがアイツの都合も多少は配慮しないとな」

 明日学園に行くからいつもの場所に来てほしい。昨夜受け取ったメッセージに従ったところ、またしてもジャミル先輩は学園に訪れていて。
 スマホ越しは大丈夫でも直接だとギクシャクしてしまうかも、そんな心配は余所に先輩の態度は普段のまま。だから和やかに雑談を交わして、そういえば今日はどうして学園に?と質問したならば。
 ——学園長に結婚式の日取りの相談をしにきたんだ、そう先輩は口にした。だから私は。

「……ジャミル先輩、おめでとうございます!」

 心からの祝福を添えて、にっこりと満面の笑みを先輩に向ける。

「いやーまさか先輩にそんなお相手がいたなんて。先輩のお嫁さんになるような人だからきっと綺麗な人なんでしょうね」
「監督生」

 叶えたいなんて、欠片も思っていなかった。その気持ちは嘘じゃない。だって先輩には幸せになってほしい。良かったじゃないか、一番の願いごとが叶って。そう言い聞かせてるのに。

「ぜひとも後輩のよしみで式には呼んでくださいね。ご祝儀、奮発しますから!」
「……

 はあ、と溜め息を吐いて、先輩は懐から取り出したハンカチで私の顔を拭う。笑っておきながら、私の顔は涙でぐちゃぐちゃになっていた。
 泣くつもりなんてなかった。それに先輩が幸せになってくれて嬉しい。なのにどうしてか涙が止まらない。じくじくと胸が痛む。
 こんなみっともない姿、先輩に見せたくなかった。ごめんなさい、と自分でも何に対してかわからない謝罪が繰り返し口から溢れていく。それを断ち切ったのは先輩のある一言だった。

「俺の結婚相手は君なんだが」
「………………え?」
「君の保護者じゃなきゃ、あの男に気を遣う訳がないだろう」

 衝撃発言に驚いたあまり、ぴたっと涙が止まる。先輩の言葉を頭の中で反芻し、確かにそれもそうかと納得する。
 ……いやいやいや違う違う違う! おかしい、確実におかしい! ツッコミどころが多すぎて、どこから聞けばいいのかわからない。おかげで私はただただ疑問符を浮かべることしかできなかった。

「君が俺に想いを寄せているのは知っていた」

 いきなり予想外の方向から図星に剛速球を投げ付けられ、私はフリーズする。さっきからフル回転させているのにオーバーヒートしてる頭はいっこうに展開を理解してくれない。

「でも君は想像していたよりも遙かに俺を好いてくれるとわかって、もうこれは結婚するしかないなと」
「先輩、いきなり思考が十段ぐらいステップアップしてませんか……?」

 たぶん今言うべきことはそれじゃないと思う。でも超展開に頭が追いついていなくて、かろうじて口にできたのがそれだけだったのだ。
 もし感情が可視化されていたなら、私の周囲にはハテナマークが散乱していることだろう。本当に混乱しているのだ、けれど先輩は容赦してくれなかった。

「飛びもするだろう。君はあれだけ恋しがっていた家族を諦めてまで、俺を助けようとしてくれたんだからな」
「……先輩、どうして、それを知って」

 先輩とは家族の話を何度も互いに語り合った。だから前者は知っていて当然だけども、後者は先輩に知られないよう必死で隠していたのに。
 恍惚とした表情を向けてくる先輩とは対照的に私はひどく青ざめた顔をしていることだろう。かたかたと手先が震える。そんなはずないのに、血の気が引く音が聞こえたような気がした。

 ——この世界の者とまぐわらないように。それが学園長が提示した元の世界に帰る為の条件だった。
 魔力をインクとするならば、体は布地、そして性行為は染色である。他の人は元々自分の魔力で染まっているから他の者の魔力が染みこみにくい。だが魔力を持たない私は白い布のようなもので、ひどく他の人の魔力に染められやすい。そして一度染まったが最後、抜くことは不可能であると。
 元の世界に戻るためにはこちらの世界のものは置いていかなければならない。故にあの日を持って私は元の世界に戻れなくなった、私の体はジャミル先輩に染まってしまったから。
 それらを知った理由を異界渡りについて調べていた為だと先輩は口にする。学園長から確認も取ったと。その言葉で、ある可能性に思い当たり、スッと気分が冷めていく。

「……責任感とか同情からの言葉なら、いらないです。どうであれ、自分で選んだ道ですから」
「俺はもう自分の好きに生きると決めたんだ。だから俺はカリムと違って無駄な慰みなど与えてやらないし、例え君の気持ちが余所へ向いていようが最終的には同じようにしていたさ」

 ぎゅっと拳を握り込み、俯きながら吐いた拒絶を先輩は一蹴する。
 あまりにも堂々とした言い分だったが為に、取り繕えずにいれば頬に先輩の手が添えられた。あの日の始まりのような優しい触れ方だった。

「もしあの場に居たのが他の女なら死んでも触れるものか、面倒ごとはごめんだからな。君だから抱いたんだ、むしろ君が責任を取れと迫ってくれれば喜んで承ったんだが」
「先輩、そんな風に言われたら、私、期待してしまうので」
「期待してくれないと困る。俺も君を好いているからな」

 いつも通り落ち着いた様子で先輩は告げた。けども、彼の黒曜は、私を一心に見つめるその瞳はひどく熱い。
 私やっぱり薄情者だ。家族を切り捨てておきながら、それでも先輩のこの言葉を聞いて心が満たされているのだから。ごめんなさい。自分でも酷いとわかってる。けど何も惜しくない位、先輩が好きなのだ。
 ただ気持ちは浮いたままなのだけれどパニック状態が解除されたせいか、少しばかり冷静に物事を考えられるようになってきて。

「……あの、嬉しいですけど、やっぱり結婚は早くないですか? それに私をお嫁さんにするにはデメリットが大きいかと」
「さっきも言ったが君の気持ちなんてどうでもいいのと同じように、身の上だって気にしない。君が妻になってくれて起きる問題くらい俺が補ってやるさ。俺がしたいからするだけだ。もう俺からもカリムからもバイパー家は説得されてるから諦めてくれ、なんならアジーム家も納得させてきてるからな」

 つらつら淀みなく先輩は一息で言い切る。私の心配は彼にとって予想内だったのだろう。
 というか声こそ優しいけど、つまり拒めばアジーム家とバイパー家を敵に回すってことだよね?これ実質脅迫なのでは……?先輩の発言を頭の中で復唱し結論を出す。うん、脅しだ、これ。
 む、むちゃくちゃだな、この人……。だとしても先輩にぞっこんな私の事だから、どんな無茶言おうが結局OKするだろうって思われてるんだろうなあ。その、はい、間違ってないです……。

「あんな形になるのは予想外だったが、そもそも俺はそう遠くないうち君が知っていた帰還方法を潰すつもりだったんだ」
「ご、強姦は……さすがにちょっと」

 いくら先輩が相手でも無理矢理犯されたら、さすがに嫌いになると思う。……なるよね?どうしよう、ハッキリ断言できない自分が怖い。

「君のことだから俺が本気で求めたら合意してただろう。君に嫌われる可能性は少しでも減らしたかったから敢えて言わなかったが、もしあの部屋で君の申し出がないまま限界を迎えそうなら口説き落とすつもりだった」
「そんなことは…………あります、けど」

 私の密かな焦りに気付いているのか、気付いていないのか。しれっと先輩は私が目を逸らしていたことを指摘してくる。
 ああ、だからあの時、先輩あんなに冷静だったんですね……。もう先輩には全部見通されていると思い知らされ、私は正直に白状するしかなかった。

「本当に君は俺の事が好きだな」

 小馬鹿にしたような言い方なら反撃したんだろう。でも改めて実感して嬉しくなった、そんな浮かれ具合が声に滲んでいたから文句の付けようがない。
 ところで、と続けられた先輩の話に私は本日二度目の衝撃を受ける事となった。

「俺は優秀な男だからな。完全に元の時間軸に帰るならあの方法しかないが、こちらと同年数経ってても良いなら他にも手段は何個か見つけてある」
「えっ、わ、私、帰れるんですか……?」
「基本はこっちに住んでもらうが、一時的に戻る分には手伝うさ」

 まさかの希望に目を輝かせる私へ先輩はやわらかな声色で約束してくれる。再び溢れそうになった涙を何とか凌いで「ありがとうございます」と口にする。自分でも呆れるくらい弾んだ声だった。
 それにしても先輩は凄いなあ。学園長はまるであの方法以外じゃ帰れないみたいな感じで言ってたのに。尊敬の眼差しを向ける私に対して、先輩はどこまでも冷静だった。

「まあどうせ学園長のことだ。本当は見つけていたとしても黙っていたに違いないな。異界渡りは総じて手順が面倒だったり、条件が厳しいものだ。だが提示した方法なら自分の負担はゼロで、君が気をつけるだけで良いし、もし君が条件を守れなかったら責任を押しつけられる。だから君がちゃんと卒業を迎えるための餌としてぶら下げていたんだろ。人を動かすには飴も時には必要だからな」
「……大人って汚い……」
「むしろそれこそナイトレイブンカレッジの基本スタンスなんだが」

 先輩の推理に、なるほど……としか思えなかった事に学園長への信頼度の低さが窺える。脳内の学園長が私優しいので!と必死に訴えていたが、先輩の発言とは異なり説得力はまったく感じなかった。
 先輩の言うとおり、この学園の人は一部を除いて利己主義者ばかりである。そりゃ協調性が死んでると言われて当然だ、そう易々と納得できる。なのに先輩は。

「……でも、先輩は自分の為にならないのに、私が帰る方法を見つけたどころか手伝ってくれるんですね」
「君の家族を大切に思う気持ちはわからなくもないからな」
「しかも話を聞く限り、ものすごく手間がかかるんですよね……?」
「なに、面倒ごとは嫌いだが、本気で惚れた女の願い事なら叶えてやるさ」

 あっさりと告げられた、ひどく大きな愛情に赤面しているだろう私を見る目は、どこまでも甘くて、熱くて。あの行進の時よりもジリジリと肌が焼けるような錯覚をおぼえる。
 吹っ切れた後の先輩が好ましかった。自信に満ちたその顔が好きだった。かつてない晴れやかな表情で先輩が笑う。

「君のためならランプの魔神になるのも悪くない」

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