隠さないお前と、本当は隠しきれないヤツ
「私の住んでた世界……というか、私の国かな。友達でも名字で呼び合うことの方が多いんだ。異性に至っては名前で呼び合ってたら特別な関係と思われることが多いというか」
からその話を聞いたのは、まだ彼女に対して抱いているものが友情だけだと思っていた頃だった。
彼女は親しい友人以外、特に目上の相手は名字で呼ぶことが殆どで。あの名字がやたら長いアズール先輩ですら律儀にファミリーネームで呼ぶものだから、つい「名前の方が呼びやすくね?」と口出ししたところ、先程の話を彼女はオレに伝えてきた。
「ふーん。でもお前、オレの事は最初から名前で呼んでたじゃん」
「エースが私を名前で呼ぶから釣られたんだよ」
オレの指摘に答えながら、は自分の膝を枕にしてヘソ天を決めるグリムを見る。猫と言われるたびにグリムは猫じゃないと怒るけど、その姿はどう見ても野生を失った猫そのもの。
そういえばコイツ、わりと流されやすいタイプだったわ。オレ達が迷惑をかけたイソギンチャク事件も泣きつかれた結果、無碍にできなくて奮闘してくれたわけだし。なんて納得していたならばはオレに向かってはにかむ。
「私、元の世界だと男友達いなかったんだよね」
「そうなの?」
「うん。だから実はね、私、男の人を名前で呼んだの、エースが初めてなんだ」
どこか照れくさそうに告げる彼女にオレまで何故か恥ずかしくなってくる。
それからだ。に名前を呼ばれると胸の辺りがムズムズとくすぐったく感じるようになったのは。でも決して嫌な感じじゃなかった。これまでずーっと他の奴らにも名前で呼ばれてたのに、それが当たり前なのに。へんなの。
ある日、ふともオレに呼ばれた時、同じ思いをしてればいいのにと考えて。オレはその願いの出所を理解してしまった。
その時まではちゃんとにとって良い友達でいられたと思う。でも気付いてしまってからは、あのやりとりがオレ達の関係に大きな影響をもたらした。
◇
「なあ監督生ー、ノート貸して」
「……仕方ないなあ。あとでジュース奢りね」
「しっかり徴収していくじゃん」
いつも通りのありふれた日常のやりとり。
だけど話しかけた時、が一瞬悲しそうな顔をしたのをオレは見逃さなかった。そうオレは気付いてるし、その原因だってわかってる。オレにしか解決できないことだってことも。
ここ最近、というかを女の子として意識してから彼女を名前で呼べなくなった。それまで当然のようにずーっと口にしてたのに。のあの話を聞いていたせいか、妙に気恥ずかしくて。今や心の中でしか言えなくなっている。
が悲しんでいる理由は間違いなくこれだろう。だってアイツからしてみれば、親友のオレがいきなりよそよそしくなったのだから。普段の態度とか呼び名以外は変えてないけど、あんな風に目に見えて落ち込んでるくらいだし、きっと名前を呼ばれるのってアイツにとってはかなり特別なことなんだろう。
そういう顔をさせたいわけじゃない。オレとしてはもっと仲良くなりたい、それこそアイツの言ってた特別な関係になりたい、のに。どうも思うようにいかない。
恋って厄介だし面倒。今まで簡単にできてたことすらできなくなるなんてさ。でも、この気持ちを捨てたいとか諦めたいなんて一切思ってないから、なおさら悪質だ。
呼び方以外はなんとか取り繕えてるけど、もしかしたらそれもいつか難しくなるのかも。お前にとって一番の友達のエースとして振る舞えなくなる日が訪れるのが、オレは怖くて仕方がない。
◇
「エース、私、何か怒らせるようなことした?」
恐れていた通り、日に日にへの態度がぎこちなくなっている自覚はあった。
だけどまさかデュースにまで気付かれるほど悪化してたなんて。あーでもアイツ、ヤンキーだった頃にチームのリーダーをやってたとか言ってたから、案外そういう機微には鋭いのかもしれない。まあきっと友情方向だと思ってるんだろうけど。
たぶんお前が悪い、さっさと仲直りしろと彼女と二人きりになるよう取り計らわれた直後、は今にも泣きそうな顔でそう口にした。それだけ不安にさせてしまったのだろう。
「なんのこと」
罪悪感に胸が痛む。だけどオレの口は当たり障りのない返答を紡いでいた。
お前のことを意識しすぎた結果だよなんて言えるはずがない。"友達"のオレにそんなこと言われたら、お前だって困るでしょ。わかってる、こんなの自分が傷つかないだけの言い訳だ。
気まずい沈黙がオレ達の間に横たわる。どうしたらいいのか、わからない。でもだからといってこの場から逃げ出したら、きっと取り返しの付かないことになる。
「なんでエース、最近、目を合わせてくれないの」
「それに私のこと避けてるよね。態度もなんだかそっけないし、かと思ったらいつもよりイジワルするし」
「……って、名前呼んでくれないの、寂しいよ」
絞り出すような声で、いつの間にかやってしまっていたオレのよくない態度を指摘する。最後の訴えを終えた後、ボロボロと彼女は泣き出した。ぎゅうっと握り込まれた拳が妙に痛ましく見える。
こんなことしてたなら嫌われたのかもと誤解されたって当然だ。好きな子にイジワルとかダッセーな、オレ。まさかをここまで追い詰めてたなんて、こうなった以上もう臆病風を吹かしている場合じゃない。
それにニブい彼女のことだから、いっそ正面からぶつかって意識させた方がワンチャンありそうだし。
持ってたハンカチでの涙を拭う。されるがままの彼女に「ごめん」と口にして、ここが勝負所だと自分を鼓舞する。
「お前のこと嫌いになったとかじゃなくて、むしろ逆なんだけど」
「逆、って……?」
「お前がオレにとって特別な女の子になったから、って言えばわかってくれる?」
彼女の濡れた瞳がパチパチとまばたきする。わかってないのか、きょとんとあどけない表情を見せるになんとなく恥ずかしくなって視線を逸らしてしまう。
自分にしてはかなりストレートに言ったつもり。だけど彼女は何も言わない。の反応が怖い。ただ単に伝わってない可能性も想定しつつの様子をおそるおそる窺う。
……どうやら予想以上に効果抜群だったみたいだ。驚いたのか、の涙はぴたっと止まっていて。そしてその頬は先日食べたチェリーパイのフィリングみたいにまっかっかに染まってる。
リドル寮長の赤面は恐ろしいのに、がやってるとひたすら可愛い。いや比較対象おかしいわ。オレ、自分で思ってるよりテンパってるのかも。
「」
戸惑いと羞恥と、それ以上に嬉しさが詰まった彼女の表情に自然とそれが口を出た。
オレに呼ばれたはふにゃと頬を緩ませながら「エース」と呼び返す。今まで何度もくり返してきたやりとりなのに、いやに胸が高鳴る。
なんでこんなにもわかりやすく可愛く見せてくれてたのにオレ、今まで気付いてなかったんだろ。なんにせよ、この反応を知った以上もう監督生呼びじゃ絶対満足できねーわ。
特別になった女の子の声はオレに対する好きを全く隠してなくて、でも素直じゃないオレは滲ませるぐらいにしてまたの名前を口にした。