魔法使いが泣いた夜

「ただいまー……」

 脱いだコートを玄関のポールハンガーにかける。家の中は静まりかえっていて、自分が立てた物音だけが響いている。
 結婚して以来、は毎日かかさず見送りと出迎えをしてくれていたけれど、今日は帰宅しても彼女の「おかえり」はなかった。それどころか、廊下の電気すら付いていない。
 もしかしてまだ病院から帰ってないのか。でも昼間に行くって言ってたし、買い物にしたってこの時間に出かけてるとは考えづらい。家に入ってすぐのホワイトボードに何も書いていないから、たぶん寝ているのだと思う。
 はここ最近、調子が悪かった。食欲が落ちてたし、なんだかだるいのだと。
 だいぶ春に近づいてきたとはいえ、まだまだ寒い日が続いている。だから風邪でもひいたんだろうとは言っていたけれど、それにしたってしつこいみたいだし一回病院行った方が良いと薦めた。言い出した手前、オレとしては有休取って付いていくつもりだったけど、は一人でも大丈夫だと譲らなくて。
 でもやっぱり無理矢理でも付いていくべきだった。病院行って疲れたのもあるかもしれないけど、今また寝てるなら全然大丈夫じゃないじゃん。心の中でそう文句を垂れながら、明かりを付けてリビングへと向かう。

 真っ暗なリビングのソファで案の定は眠っていた。明かりを付けてないってことはいつから寝ていたのか。冷えたら体調悪化しそうだし、ちゃんとベッドで寝てほしい。適切に保たれている室温に、高くてもオート機能付きの魔力式エアコンにしておいて良かったと心から思った。
 寝ているところ悪いけど少し明かりをともす。これで躓いたりぶつけたりする危険はぐっと減った。安全を確保できたところで寝室へ運ぶため、彼女へ近づく。途中、ふとテーブルの上に何か紙が置いてあるのに気付いた。
 妙に気になって紙の内容を確認した瞬間、オレの喉はヒュッと変な音を鳴らした。いやに早い心臓を押さえながらもう一度確認するが見間違いじゃない。
 テーブルに置かれていたそれは記入済みの離婚届だった。
 あいにくから離婚を切り出されるような覚えはない。妻から言われた場合は大抵そうなるまで色々積み重なっていて、男側には自覚がないものだというのはよく聞く話だけれど、オレ達の場合は違うと言い切れる。
 今朝だっていってきますのちゅーしてもらったし、彼女が体調を崩すまではほぼ毎晩イチャついていたし。はわりと態度に出るタイプだから、あれらが演技だとは全く思えなかった。何より彼女はずっと全身で、オレとは違って言葉でも「好き」を伝えてくれている。
 もしかしたら今日の診察で何か大きな病気が見つかったのかもしれない。過去のやりとりとの性格からして、もはやその理由しか考えられなかった。
 納得すると同時、怒りが湧き上がる。ふざけんな。そんなことで離れるような生半可な気持ちでプロポーズしてないっつーの。何があったってお前を諦めてやるもんか。
 わなわなと激情に震える手を静かに見つめていれば、ソファのが身じろいで小さく声をこぼす。間を置いてゆっくり起き上がった彼女はまだねむいのか、ボンヤリしている。なんだか顔色悪いな、そう心配していたオレに気付くとは眉尻を下げた。

「おかえりなさい! ごめんね、うっかり寝ちゃってて……すぐごはん温めるね」

 体調が悪そうなのを除けば、はいつも通りだった。まるでこの離婚届なんて最初からなかったかのような振る舞いに思わず手の中のそれを握り込む。クシャッと立った音にの意識が移った。
 まずい、と思った時にはもう遅くて。握りつぶした紙に彼女が真剣な表情を見せたことで、これはがテーブルに置いたのだと理解してしまった。

「エース、それについてちょっと相談が」
「ヤダ」

 決定的な事を言われる前に遮る。いつもならバカみたいに回る口が今は上手く動かない。爪が刺さるほど拳を握り込む。
 冷静になれ、こんな時こそ不敵に笑え。自分に言い聞かせるが、意志とは反してオレは表情を作れないまま、大きく息を吸い込んでいた。

「別れない。最後まで一緒って言ったじゃん。絶対離婚しない!」

 本当はもっと冗談めかして流すつもりだったのに、口をついて出たのは子供の駄々みたいな本心だけだった。かっこわる……と後悔こそしても撤回するつもりはない。今のオレの心情じゃ、何度挑戦したってこれ以上の言葉は出てこないだろうから。
 感情的に叫んだオレには目を丸くしていたけれど、突然へにゃりと笑う。自分でも単純だなと思うが、場違いなその笑顔に張り詰めていた気が抜ける。まだ何も言われてないのに、もう全て解決したような気持ちにすらなっていた。

「それね、これと一緒にポストに入ってたの」

 そう言ってがエプロンのポケットから渡してきたのは、オレと会社の後輩の名前で書かれた婚姻届だった。
 もちろんオレが書いた覚えなんてない。落ち着いて両方の紙を確認すれば、そこに書かれた筆跡は嫁のものじゃないし、名前と住所以外はでたらめで。
 このやたら丸っこい筆跡は間違いなく、記載されている後輩のものだ。教育係に読みづらいから直せと怒られた、そうオレにグチってきた時に見た覚えがある。あの時もそりゃ怒られるだろと内心思っていたけど、改めて酷いなと感じた。
 おそらくオレに告白を断られたものの、諦めきれない後輩がこんな悪質なイタズラに出たんだろう。既婚者だって言ってるのにアタックしてくる時点で神経を疑っていたけど、今回の件はどうにも許せそうにない。二度とおかしな気を起こさないよう、明日にでもキツく〆ておこう。
 真相がわかって安堵から息を吐く。ここまで酷くないけど、同じようなことは過去にも何度かあった。は「モテる男は大変だね」と全く気にしていないし、なんならNRCの先輩達によって鍛えられた煽りスキルで相手の心を折っていくことすらあるけど。
 それでもが気に病むんじゃないかと心配で。だから今のケロッとしているの姿にホッとすると同時、こんな風に彼女が話題にするのは珍しいなと思った。いつものなら破ってさっさと可燃ゴミに入れてるから。たぶんオレに悟られないまま、内々で処理してるのも結構あるんだろう。

「私一人なら適当にあしらったんだけど、この子のことを考えたらエースに相談すべきかなって」

 そう言いながら、おなかをさするに思わずオレは眉を顰めた。そしてさっきの予想はあながち間違ってなかったなと実感する。相変わらず危なっかしいヤツ。そんなところが学生時代からほっとけなかった。

「いや、お前一人でも頼っ……」

 いつものように注意しかけたところで言葉が詰まる。
 さっきはなんて言った? それに彼女が手を宛がっているのは。固まるオレには嬉しそうに笑う。それでいて薄く涙の膜が這っているのはきっとオレの気のせいではないのだろう。

「……エース、あのね。来年には私達パパとママになるんだって」

 最初にから別れを切り出されたのは卒業式が終わった後だった。
 動揺しなかったと言えば嘘になるけど、変に気を遣う彼女の事だから、もしかしたらと予想していて。おかげであっさりと流し、オレ達の関係は卒業してからも続けることができた。
 周囲にも協力してもらいながら、何度もオレは彼女と結婚を目論んだけれど、から何かに理由を付けて断られ続けていた。
 戸籍が無いから、魔力がないから、彼女が言い出してきた不安材料をことごとく潰して、あとは「突然元の世界に戻されるかもしれないから」という理由だけが残ったある日、オレは学園長からが一生元の世界に戻ることができなくなった事を聞いた。
 もうこれで彼女が結婚を拒む理由はない。だからすぐさまオレはに再びプロポーズをしたのだけれど、それに彼女はまたしても別れてほしいと言い出した。
 納得できるはずもなく問い詰めれば、は今まで潰してきた理由をまた持ち出したり、あげくの果てには「エースのことがもう好きじゃない」なんて口にしたけれど、自分で言っておきながらは苦しんでいて。

『私、子供ができないの』

 幼い頃に患った病気の後遺症で子供は望めない。こちらの世界のお医者様に診てもらっても同じだった。私はエースに家族を作ってあげられない、エースのこと幸せにできない。
 そう声を絞り出しては泣きじゃくっていた。それにオレは彼女の手を握る。バカ、のバカ。
 お前忘れたのかよ、オレの理想の結婚相手。一人で泣くなよ、辛いならそれこそオレのこと頼ってよ。今までみたいにきっと二人でなら何があっても乗り越えられるんだからさ。

『だとしてもお前と家族になりたい、最後まで一緒にいてよ』

 オレの言葉には大きく目を見開いて、何度も何度も頷いていた。

 ——そうして始まった二人での生活は本当に幸せだった。既婚者の先輩達はこぞって結婚は人生の墓場だなんて言ってたけど当てにならない。ほぼ毎晩抱きたがるオレには最初こそ戸惑っていたけれど、今では嬉しそうに受け止めてくれて。
 たまに起こるトラブルだってとなら頑張れたし、今ではちょっとした笑い話にすらなっている。子供がいないことで心ない言葉を口にする奴もたびたびいたけど、それすらオレ達の円満な夫婦関係のために利用する始末。
 だから本当にもう充分過ぎるぐらい幸せで。彼女と二人、一生幸せ者でいられる、それだけで良かったのに。思わずを抱きしめる。

「私の魔法使いさんはいつも私の一番欲しいものをくれるんだよね」

 弾んだ声でが言葉を続ける。同時に泣いているのか、彼女の頭が収まる胸元が少し濡れていた。
 見えないけどきっと彼女は笑いながら泣いている。器用なことしてるね、お前。そう思っても目頭が熱くて、いつものように彼女をからかう余裕はなかった。

「エース、ありがとう。これからもずーっと一緒にいようね」

 背中にの腕が回る。かき抱いた二人分のぬくもりにオレは幸福を噛みしめた。

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